目に青葉 
山ほととぎす
初鰹

波切節

古来、朝廷の献上品にて、名錐(波切)の
在所より堅魚と呼ばれる品あり
天子いたく喜び朝儀として求めたり
「本朝食簡」より

奈良王朝の時代から、鰹節の美味しさは、
珍重されていたようです。
すでにこの時代より波切の名は、
木簡等に記されており、
王朝や神宮などに鰹節を献上していたとの
記述が残っています。
鰹漁業が盛んであったこと、
さらに鰹節の製造法として、
燻し技法が取入れられ、
波切の鰹節の製造は、盛んになってきたようです。
文政五年 味にうるさい江戸っ子達から、
諸国番附表にて薩摩節・土佐節等と並び、
行司役としての大任をいただくほどの伝統ある
鰹節となりました。

手火山製法

江戸の中期に完成した『手火山製法』。漁獲海域、シーズンによって全て異なる魚質を見極め、火加減を手で調整しながらじっくりと燻すこのスタイルは旧式で全国で10軒程度しか残っていないそのうちの1軒でございます。
伊勢志摩地方の鰹節作りといいますのは、地域の里山から採った薪(間伐材)を使用しております。里山を守ることによって海を再生する。自然の循環を保ちながら自然の鰹節作りを継承する。
我々ご先祖様たちは何千年も昔からこの自然の循環を保ちながら物作りをしてきた・・・その証なんですね。薪が赤々と燃え、遠赤外線効果によって中心からじっくりと燻してくれています。
また、この薪(ウバメガシ)の灰は藍染めの染料や、焼き物に使う天然灰(灰釉)としても利用しています。
伊勢志摩の鰹節作りは、こうした「循環」の中で生まれています。

かつおの歴史と文化

【神様と波切節】
伊勢神宮は、日本の神の大元締めとして、大神が鎮座されていますが、大きな仕事として、食への祈願があります。
これは、天皇ともども行われていたとされる儀式で、所謂豊作祈願であり、食への感謝であり、すなわち国家の安定に結びつく
儀式でした。この神宮に「神饌」としてささげられているのは、志摩国からの食材であり、もちろん鰹節もその中に捧げられていました。
また神宮の棟木には「かつお木」と呼ばれるものが存在しており、古来の人々が「堅魚」に何らかの意味合いを込めていたことがわかるものとして、調査されています。
食材だけでなく、神と人とをつなぐ役目を担っていたことを示す一例とされています。

【堅魚の記述】
鰹節の原型といわれる「堅魚」の記述は、かなり古く、「古事記」の中に見ることが出来ます。「堅魚」を朝廷に献上し、天子が喜んで食し、次回も持参するようにと求めたとされています。

【木簡の出土】
平城京跡より多数の木簡が出土されていますが、その中に、名錐国(波切)より堅魚が献上されたとの記載が入った木簡が、発見されています。これにより、波切ではすでにこの時代、鰹の加工をしており、朝廷に献上していたことがわかります。
これ以降の平安京跡からも、堅魚の献上の木簡は、出土されています。

【魚切里の特異性】
志摩国は、古来より独特の律令制度の管理下におかれていました。すなわち海産物をはじめとし、豊かな食材を都へと供給する特別な領地としての扱いを受けていました。「美味し国」「御食つ国」としての名称が与えられ、気候もよく、食材に恵まれたこの地域は、都にとって格別の地として位置づけられていました。
伊勢神宮の大神が鎮座されたのも、この地が「美味し国」であったためと記述されていることからも、古来の人々の食と神の関わりが深いことを示しているといえるでしょう。 
後年、伊勢参りが爆発的な人気を呼んだのも、この地域が備えている神と食の一体化に、人々がひかれたためともいわれています。

【戦国時代と波切節】
世が戦国時代へと移り変わる中「堅魚」はその保存性を高め、戦国武将達にとってなくてはならない携帯食として普及していきました。すでに各地で「堅魚」が製造され、産地の名を付けて○○節と付けられたのも、この時代であります。
波切節もまた熊野などとの技術交流を行い、質の良い「堅魚」を産出していたといわれています。波切が織田の水軍「九鬼」の本拠地であったことからも、織田の商業の発展の政策による保護を受け、海路ルートで、各地へ流出していき、その名を馳せたといわれています。波切節は、江戸時代、鳥羽藩の重要な貢物として、献上されていましたが、そのルーツは九鬼水軍の頃より作られてきたのであると考えられます。

【九鬼水軍と波切節】
九鬼嘉孝は、伊勢志摩波切を本拠地とした水軍の党首であり、信長に忠誠を誓った武将です。石山合戦のおり、敗北したのは、戦場での食事が悪いせいであると気づき、全員かつお刀をつけ、腰に鰹節を刀と共にさし、戦いの合間に食すよう命令しました。
この後の合戦に勝ち「船・武器の準備だけではなく、食の準備も戦には重要である」と後に、信長に語ったといわれています。武士達は、ビタミンE・Dが不足したための体調不良であり、ビタミンを多く含む鰹節を食べることでこれを防いだのではないでしょうか。波切節の地を本拠地にする九鬼水軍ならではの知恵といえるでしょう。

【江戸時代の鰹節文化】
江戸時代中期、江戸の庶民文化が隆盛しだした頃「堅魚」の製造が飛躍的に進歩しました。「燻しの技」を取入れた製造方法が取りいれられ、この時点で現在の鰹節と同じ物が製造されるようになりました。この技術を広めたのは、熊野の甚太郎なる人物で、それ以降鰹節の製造技術は、急速に広まっていきました。
「堅魚」だった頃は、なかなか庶民達の手に入れにくいものでありましたが、生産が増え、鰹節が出まわるようになり、鰹節の流行を生み出したのである。この時代はまた、日本人の和食の基本が確立された時代であり、今までの塩・醤油・味噌に鰹節のだしを加えた料理が、この基本型となっていったといわれています。
この時代、蕎麦屋・うどん屋が相次いで江戸の町に現れたのも、鰹節の与えた影響が大きいといえます。
「諸国番附表」に記載されている各地の鰹節をみても、庶民達の間に鰹節が浸透されていたかが良くわかります。
また、見立て表を作るぐらい、各地の鰹節の味を庶民が知りぬいていたことも、味へのこだわりを感じさせます。
  

この時代に流行した川柳などにも、鰹節が多く引用されていることから、鰹節と人との関わりの深さを見ることが出来ます。

かつお節の世界

かつお節は、黒潮に面した地方で、古来よりさかんにつくられていました。
但しその製法は、各地で、異なっていたようです。
古文献によると、紀州の甚太郎(じんたろう)という人が、鰹節の長期保存のために、わらをいぶすことでかつお節の水分を除去し、それまでより堅く、美味なかつお節の製造方法を考案したと伝えられています。

この製造方法が「いぶし」と言われ、この当時には秘伝とされ、この製法で作られたかつお節が最上級とされていました。 
波切節は、この古来より秘伝のいぶしの技でつくられており、美味しいといわれるところに名を馳せていたようです。

このように波切節の名が広まり、また職人達が秘伝を教える立場にあったため、師範的な意味合いを込めて諸国鰹節番付表において、行司役とされたとも推察されます。

また伊勢神宮においても、古来よりこの波切節が、お供え物として供えられていたことや、堅魚木信仰等の影響から、「神様の土地のかつお節」として行司役という、裁定を下す役どころをおおせつかったのではないでしょうか。

鰹節の豆知識
本節
一匹のカツオを三枚におろし、左右に分けた身をそれぞれさらに二分して、一匹の魚から四本の節をとったもの。

亀節
一匹のカツオを三枚におろし、左右の身片で一本ずつ、つまり一匹の魚から二本の節をとったもの。通常、三・五キログラム以下の小型魚は亀節をとる。

雄節
本節のうち、左右の身片の背側(魚を横に見たとき上半分)で作った節のことで、背節ともいう。

雌節
本節のうち、左右の身片の腹側(魚を横に見たとき下半分)で作った節のことで、腹節ともいう。つまり、雄節も雌節も一匹のカツオから二本ずつとれることになる 。

製造工程による節名

荒節
かつお節の製造過程で、煮熱の後焙乾するが、この焙乾を終えて乾し固めたもののことで、「鬼節」ともいう。

裸節
荒節の表面の余分な肉や汚れを、小刀で削って形を整えてから黴付けを行うが、この削りが終わったものが裸節で、赤褐色をしているところから、「赤はぎ」あるいは「赤むき」ともいわれる。

本枯節
裸節を黴付けし、通常四番黴まで終了すると、節の残存水分は十八パーセント前後になるが、この状態になったものを本枯節と呼ぶ。また、単に「枯節」という場合は、焙乾後に本枯状態ではなくとも、黴付け工程を行った節すべてを指す。

鰹節の生産地による節名
かつお節は、古くから主要産地が定着しており、薩摩節・日向節・土佐節・紀州節・焼津節・伊豆節・常盤節・三陸節などと、各産地で生産された節に生産地の名を冠して呼ぶ習慣がある。

これらの産地では、身のおろし方(生切り)など製造過程において多少の相異点や特徴があるため、かつお節業者など目の慣れた人には、完成品を見れば産地がわかるといわれる。

三重県伊勢志摩地方…波切。ここ は奈良時代、志摩国伊雑郷魚切里と呼ばれ、伊勢神宮への御食(みけ)を求めた倭姫命が志摩国伊雑郷に伊雑宮を建立した時代からカツオ漁が盛んに行われていました。
昔は左記の様なエンジンもない船で沖に出て1本釣りでカツオを捕っていました…
保存する方法となると一番理想的な製造方法が燻製にする、つまり『かつお節』なのです。
波切節はそういった歴史の中で原型が生まれました。